ごぜ唄とは?
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瞽女唄について
瞽女唄とは?
瞽女(ごぜ)さんが暮らしのために唄った唄、それが瞽女唄(ごぜうた)です。
瞽女(ごぜ)とは?
公的な福祉のない時代、目の見えない女性の生きる道は限られており、生きるために三味線をたずさえ村々を回っていた盲目の女性旅芸人の事で伝統が途絶えず引き継がれたのは越後だけでした。
越後ごぜとは?
刈羽ごぜ、三条ごぜ、山ごぜ、浜ごぜ・・・「ごぜ」にもたくさんのグループがあり
その中でも「長岡」と「高田」のグループが双璧で
地域の違いにとどまらず、しきたりや組織のあり方など様々な違いが多数ありました。
「唄」そのものも、驚くほど違います。
他にも様々な違いがあり、両方を聴き比べるのも楽しみの一つと言えます。
演目は多彩・・・いろいろな要素がまざりあう重層的な「芸」です。
唄をうたい、楽しんでいただくことで暮らしの糧を得る・・・・
レパートリーが乏しくては商売になりません。
演目の多様さ、豊富さはごぜうたの特徴のひとつです。
瞽女唄のジャンル
瞽女唄は大きく3つに分かれます。
(1)祭文松坂と口説き
(2)もともとは他のジャンルのものを瞽女のレパートリーとして取り入れたもの
(3)その他、瞽女さん特有の演目として彩りをそえるもの
(1)と(3)は瞽女唄だけの演目です。
(1)祭文松坂と口説き
祭文松坂は、通称「段もの」とよばれ
長い物語を一定の旋律にのせて展開します。
唄と語りをあわせたようなもの、といえるでしょうか
1段が大体25分前後で長いものだと10段くらいになります。
(1つの段はここからここまでと言う決まりはなく、
切り方はここら辺で一休みしようかという感じなので~段くらいとなります)
地域・組によってそれぞれの節回しがあったものと思われますが、
長岡瞽女であった小林ハル師から
「新津組の節回し」、
「長岡瞽女屋の節回し」、
「地蔵堂の節回し」の3種類の節回しを、
また高田瞽女であった杉本シズ師からは杉本家に伝わる
「高田の節回し」、
計4種類を受け継ぐことができました。
「口説き(くどき)」の形で語られる「段もの」もあります
七七調の文句を同じ節回しでくどいほど続けるところから口説きとよばれるそうですが、多くは祭文松坂よりも短く1段から2段で終わります。
「ねずみ口説き」「とっくり口説き」のように、ショートストーリー風のごく短い滑稽ものなどもあります。
(2)もともとは他のジャンルのものを瞽女のレパートリーとして取り入れたもの
新内、都都逸、端歌、和讃、民謡、はやり歌、など非常にたくさんあります。
文句も旋律も元のものとはかなり形を変えているものもたくさんあります。
唄は似ていなくとも唄についての地元の慣わしが同じ、というものもあります。
佐渡おけさ、新保広大寺節、などは長岡・高田両方を習いましたが
それぞれに全然違う文句、節回し、情緒を持った、別の唄です。
(3)その他、瞽女さん特有の演目として彩りをそえるもの
正月祝い口説き、瞽女万歳、瞽女松坂、などがこれにあたります。
(1)、(2)、(3)、それぞれが絡み合って聴く人と唄うものとの楽しい時間を織りなしていきます。
しんみりとした物語に聞き入り、楽しい唄で笑い、めでたい唄で楽しみ・・・・・
「ごぜうた」は、そのような複合的な「芸」なのです。
瞽女唄の特徴
瞽女唄の特徴と三味線唄との違い
「演目の多彩さ」
「荒々しい響き」
「臨場感あふれる即興性」があります。
単なる「唄の何でも屋さん」ではなく
どのようなジャンルのうたを唄っても、一声で「これはごぜうた」と
感じることができる独特の響きを持っているのです。
音の質が違うのでギターや一般的な三味線で津軽三味線の音を再現しても、本物の津軽三味線の音にはならないし、逆に津軽三味線の奏者がポップスや歌謡曲をアレンジしてひくと、どのようなジャンルのものであってもちゃんと津軽三味線に聞こえます。
また、狂言師には狂言師の、歌舞伎役者には歌舞伎役者の声があるように、ごぜうたにはごぜうた独特の「声、発音、音程のとりかた、三味線の響き」があるのです。何も知らない人が聞いても容易にわかる「特徴的な響きの違い」というものが、それぞれの芸能に存在します。もちろん、ごぜうたにも存在します。
この点は師匠小林ハルさんだけでなく、録音に残されている他のごぜさんも、それぞれ地域や系統や唄のタイプがちがっていても、共通しています。
言葉では限界があります。
ごぜうたを理解していただくためには「ごぜうた」が作り上げる濃密な時間を体感していただくより他に方法がないように思います。
ごぜうたは名も知れぬ多くのごぜさんたちが生活をかけて培ってきた芸です。
ちん、とん、しゃん、というような、いわゆる「きれいな三味線」また「きれいな声」では絶対に表現できない世界であるとわたしは考えています。
「臨場感あふれる即興性」は「変質」を伴わない「変化」
ごぜうたを習得する時、最初にぶつかる難問がこの「即興性」です。
文句、旋律、長さ、三味線のいれかた・・・・すべてが多様に変化するのです。
目の前で唄ってきかせてくださる師匠の唄が毎回違う・・・驚きでした。
もちろん録音に残されているものもさまざまに変化しています。
どれが正しくてどれが間違っている、というのではなく、
「そのように変化させることができる」ということが唄い手の力量なのです。
これが耳で伝えられてきた芸の、そして常に聞いてくれる人に喜んでもらうことだけを考えて唄われてきた唄の奥深さです。
民謡その他の短い唄ならば互いに文句をいれかえたりもします。
三味線もここでこの音を入れる、と決まっているのではなく、こうでもよい、ああでもおもしろい・・・・と。
ですから、稽古にはきりがありません。
私の元へお稽古に通っていらっしゃる方たちは、みな「やればやるほどおもしろい!」とおっしゃいます。
ひとつの旋律に全く違う趣の文句をつけた、いわゆる「替え歌」のような演目もあります。
物語を語る「祭文松坂」も、丸覚えして機械のようにそれをそっくりそのまま唄っているわけではないのです。
場合によっては、文句が一言(1行)そっくり増えたり、消えたり、入れ替わったり・・・旋律もそうです。同じふしまわしでも、幾とおりもの唄い方ができます。
もちろんデタラメに作り変えているわけではありません。
繰り返し繰り返し稽古して身になじんだ「音」と「言葉」で物語を、その唄の世界を、再現してゆきます。
決して変質させることなく変化させるのです。
当然のことながら、瞽女唄は楽譜や台本を前において見ながら演奏することはありません。
見ない・見ることができない・・・・この不自由さが逆にこの芸の大きな魅力、即興性をうみだす力になっているのです。
即興性のないもの、覚えたものを覚えたときのままになぞっているものは、形はきれいですが、それだけではごぜうたとしてつまらなく感じます。
たとえば、インタビューに答えるとき他人の書いたメモをみながらきれいに話すのと、そのメモを覚えこんで自分の言葉で伝えるのと、自分で考えながら話を組み立ててゆくのと、どれが一番相手に伝わりやすいか・・・そう考えていただくとわかりやすいでしょうか。
「瞽女唄」は先人の暮らしや息づかいとともにある歌
「演目の多彩さ」・「荒々しい響き」・「豊かな即興性」・・・・・
瞽女唄の特徴について説明してきましたが、「三味線をつけて唄をうたう」他の芸能と「瞽女唄」を区別するにはもうひとつ、大切なものがあると私は考えています。
瞽女そしてそれを支えた多くの人たち・・・
「瞽女唄」は先人の暮らしや息づかいとともにある歌です。
形はさまざまに変化しても「これは瞽女唄だ」と認識できる・・・そのために必要なもうひとつの条件とは何でしょう。
同時に瞽女唄とはいっても「心がない」「伝承ではなく根無し草のような」「感動的だがまるで別物」・・・・そのような評判がきこえてくる芸も少なくなく瞽女唄への誤解を生んでいることを残念に思わずにいられません。
形の上でのごぜうたの特徴を上に列挙しましたが、
「先人への敬意と愛着」
「精神性に迫ろうとする真摯な姿勢」
それさえあれば、「演目の多彩さ」も「即興性」も「独特の響きを生み出す発声や発音」もおのずとついてくるもののような気がします。
簡単なことではありませんが、目の見える者がうたっても「これは本物」と感じることのできる唄をめざして、私も日々努力を重ねています。
「ごぜうた」だけが持つ特徴・・・「ごぜうた」であるために絶対に必要なもの・・・
それは、この歌を歌って暮らしを立ててきた人達への敬意この歌を生活の一部として楽しんできた人たちの、その歴史と風土への愛着
この歌に人生を重ねることができるほどの思い出を持つ人達への共感・・・・・
私はごぜうたを過去を懐かしむためのものではなく、「今」を楽しむために使っていただきたいと考えています。
それでも、ごぜうたは昔のごぜを懐かしむひとたちがきいてがっかりするようなものであってはなりません。
「ごぜ」をほうふつとさせ、先人の暮らしを偲ばせる音世界・・・ごぜの「まね」をする必要はありません。「まね」ではその精神性が抜け落ちてしまうからです。