ゆかりの地・写真 瞽女宿(ごぜやど)
- HOME
- ゆかりの地・写真 瞽女宿(ごぜやど)
瞽女ゆかりの地
瞽女唄の底に流れる大切なテーマ・先人の暮らしや信仰・・・・
人知れず瞽女に心を寄せ記録に残してくださった方々・・・
ごぜの写真と、瞽女やその演目ゆかりの地をご紹介します。
聖神社(大阪府和泉市信太)
瞽女唄の代表的な演目「葛の葉」伝説のふるさとです。
聖神社は大きな神社で境内のあちこちに狐がかたどられていました。祭文松坂「葛の葉子別れ」後半の舞台です。高台にあって周囲から山のように見える「信太の森」に囲まれておりことに「三・四の段」・・・森に帰った葛の葉狐をたずねて童子丸と保名が森をさまよう場面や、母子の最後の別れの場面などほうふつとさせる景色でした。
瞽女唄の「葛の葉子別れ」では語られていない、保名と葛の葉狐の出会いの場所です。保名が聖神社に参ったあと池のほとりにたたずんでいると、白狐の姿が水面に映りました。ふりかえると傷ついたねずみが逃げてきます。保名はそのねずみを袂に隠し逃がしてやったといいます。
これが「葛の葉」のお話の端緒となります。
聖神社では、遠足の思い出や「だんじり」の集合場所になる時のにぎやかな様子などお聞きしました。
信太の森ふるさと館
開館していない時刻だったのですが観覧させていただくことができました。
葛の葉伝説にまつわる絵画や芸能、文学作品などが所狭しと並べられており、時のたつのを忘れてしまうようでした。
入り口でこの地域特産品のガラス工芸品を販売しており、3cmほどの小さな狐の置物を記念に購入しました。公演の合間にみせていただいた大作の保存品などは、見事という他ないすばらしいものでした。その他、人造真珠も特産品だそうです。
葛の葉稲荷神社(大阪府和泉市信太)
聖神社からさほど遠くない住宅街にあります。
広くはない境内に葛の葉伝説にまつわるものがたくさんありました。お話の中にすっぽりと入ってしまったかのような感じのする場所でした。
狐が葛の葉に姿を変えたときにここに姿を映したという伝説があります。「姿見の井戸」というものがありましたここから出発した葛の葉狐が無事に帰ってきたことから、「交通安全」「無事帰る」のご利益があるそうです。
葛の葉稲荷も、駅から鳥居が見え、すぐ近くの交差点の名前は「葛の葉町」・・・
観光地としてではなく地域の生活に密着した民間信仰の場として息づいている風情があり嬉しく思われました。
葛の葉を追って阿倍野を発ち、信太の森をさまよう父子の悲哀は瞽女唄ではこのようにあらわされています。
「信太が森にもなりぬれば あわれなるかな保名さま 親子もろとも今ははや
松の木陰に忍ばせて なきいる童子をおぶいあげ 深き茅野をおしわけて
童子が母や女房やと 呼べど叫べど情けなや さらに応える人もなし
声するものには虫の声 音するものには滝の音 ただ松風の音ばかり」
「信太が森にもなりぬれば あわれなるかな保名さま 親子もろとも今ははや
松の木陰に忍ばせて なきいる童子をおぶいあげ 深き茅野をおしわけて
童子が母や女房やと 呼べど叫べど情けなや さらに応える人もなし
声するものには虫の声 音するものには滝の音 ただ松風の音ばかり」
安倍晴明神社 (大阪市阿倍野区)
陰陽師・安倍晴明は祭文松坂「葛の葉」の話の中で狐の正体を明かして去ってゆく母・葛の葉の最愛の息子「童子丸」の成長した姿です。
細い路地に面した広くはない境内の一角に「安倍晴明誕生の地」のたてふだがたっていました。この他狐が身を翻している像や晴明が産湯を使ったとされる水場なども。
数あるごぜうたの中でも人気の高い演目、祭文松坂「葛の葉」全4段のうち、前半はまさしくこの場所が舞台となっています。狐が人間との間に子を成す・・おとぎばなしのような世界が現実にたちあらわれたような不思議なひとときでした。
物語の後半の舞台は「信太の森」和泉市には「葛の葉稲荷神社」があります。また名前に葛の葉はついていませんが「聖神社」へいってごらんなさいと、公演をきいてくださった地元の方に教えていただきました。
出雲崎と新潟を結ぶ道沿いに師匠と同じ名前のごぜさんお春さんの碑があります。
2009年初夏の出雲崎公演の折、念願かなって訪れることができました。
地元のNPO法人ねっとわーくさぷらいの方が掃除をしてお線香も用意してくださりお花も供えられていました。
昭和22年にこの地で行き倒れてなくなったお春さん唄がうまく人柄もよく町の人気者だったといいます。
お話の中の遠い人、という感じでいましたが実際にこの地に立ち道を挟んで広がる日本海からの風にふかれていると、「瞽女」として生きた一人の女性の面影が身近に感じられます。
ごぜうたを形だけの軽い芸にしてはならない。
この地に生きた人たちのさまざまが見えてくるような唄を唄いたい・・・・
自分には荷が重過ぎると感じることさえあるこの思いですが、妻入り会館での演奏にお春さんが得意だったという鴨緑江節もうたいました。
「お春さん喜んでいますよ」との言葉をいただき嬉しく思いました。
2009年12月13日新潟日報の連載記事「碑は語る」でお春さんの碑が大きくとりあげられ、お春さんを覚えている地元の方々のお話とともに私の思いなども紹介されました。
出雲崎にはお春さんを覚えている方がたくさんいらっしゃいます。
安寿厨子王の供養塔・・・祭文松坂「山椒大夫」
「山椒大夫」は杉本シズさん(高田)から教えていただいた段もの(物語唄)のひとつで、全2段独特のセリフが入り聞かせどころとなっています。2007年放送の「新日本紀行ふたたび」で私が唄っているのがこれです。
人買いにだまされて佐渡と丹後とに別れつれてゆかれる母子の悲劇の物語は、森鴎外の小説でもよく知られています。
また佐渡をはじめ新潟県内にはさまざまな伝説が残されていますが、小林ハルさん(長岡)のレパートリーにはありません。
高田瞽女の地元上越市、直江津港のすぐ近くにたっていました。この場所から右手をみると海、そのむこうに佐渡島・・まさしく「山椒大夫」の舞台です。
垣見壮一さん 撮影の写真
昭和44年 高柳町にて撮影
新潟県小須戸での公演に際しいただいた写真です。
(「ごぜ唄公演の記録」のページにももう1枚をご紹介しています。)
これらの写真を見ると、ごぜさんたちにも迎える側にも一般に思われがちな悲壮感のようなものは感じられず、むしろ楽しそうな日常のひとこまといった感じがします。
写真家高橋孝一さん 撮影
2009年9月写真展で唄わせていただきました。
1974~75 中静ミサオさん 金子セキさん 手引きの関谷ハナさんの旅姿を撮影したその数は数え切れないほどだそうです。)
それらの写真からは、足音や雨合羽に風が当たる音などが本当に聞こえてくるようでした 額装も御自分でなさったとのことです。
会場には撮影と同時に記録なさった会話や真室川音頭などの貴重な録音を流してくださりすばらしい写真展でした。
左は写真集 「アジアの体熱」 の表紙(中静ミサヲさん)
高橋孝一さんの写真ブログはこちら
小田節子さん 提供の写真
「記録資料」のページに「阿賀北瞽女と瞽女唄集」という本を紹介しています。
小田さんはこの資料本を作成したスタッフのお一人です(旧姓橋本節子さん)
その録音風景が右写真。昭和49年前後。奥で三味線を構えているのが小林ハルさん、隣は土田ミスさん 大学生だったという小田さんの姿も左に写っています。
大きなリール式の録音機・・・文句の書き取りにも長期休暇のたびに膨大な時間を費やしたとのこと、当時の苦労がしのばれます。
小田さんは現在中学校の音楽教師をなさっておられます。2009年、いろいろな方面からのご縁が重なってこの学校の文化祭で生徒さんたちにごぜうたを聞いていただくことができました。
実は私の長女長男も中学時代小田先生にお世話になっていたのですが、この事実をこのときまで知りませんでした。不思議な偶然という感じがします。
ご提供いただいた、録音当時の小林ハルさん、中村キクノさん、土田ミスさんの写真を次に紹介します。
下・左が中村キクノさん すでに瞽女をやめ家庭に入り穏やかに暮らしておられたのをお願いして唄っていただいたとのこと。
右が 土田ミスさん 一時期林ハルさんの弟子分として一緒に商売をしていた瞽女さん 私のレパートリーにもハルさんに「ミスの口説きにいいのがあったから覚えておけ 録音があるはずだ」と言われて習得したものがあります。この写真のときの取り組みがあったからこそ唄える唄です。
下・左が 小林ハルさん
歌声とともに姿も記録しておこうと、かつての旅姿を再現して歩いてもらったのが右の写真。場所は新潟県新発田市。
トップページの最初に使わせていただいているのもそのときの写真です。
捧武さん 撮影
新潟県田上町での公演に際しいただいたものです。
昭和30年代初めに200枚ほども撮影したという中の1枚です。この写真が入っている写真集「田園の微笑」 は林忠彦賞を受賞されています。アマチュア写真界ではとても権威のある賞だそうです。
手元には大きいパネルをいただいているのですがここでは小さいのが残念です。
雪の降りしきる中、門付けをするごぜさん達の姿とともに、風が吹き抜けているであろう縁側にまで出て姿勢をあらためて聞いているこの家の人たちの様子が印象的です。
瞽女ゆかりの宿
山形県東置賜郡土礼味(どれみ)庵
山形県置賜は越後から米沢への通り道。
山形は瞽女をあたたかく遇してくださる土地だったため多くの瞽女さんが足跡を残しました。
「百人泊め」という言葉まで残っているほどです。師匠・小林ハルさんもたびたび訪れており、「商売になるのは新潟、いい旅さしてもらうのは米沢行き」と言っておられました。ここ、土礼味庵は、390年の歴史を持つ建物です。
解体されてしまうのを惜しんだ現オーナーの片倉さんが、私費を投じて譲り受け地域の皆さんのふれあいの場として使われています。改修には片倉さんの奥様のご実家が取り壊されたときに、廃材として捨てるにしのびなかった建具などが使われているそうです。
土に感謝というその名どおり、この土地に生きてきた人たちの暮らしが見えてくるような空間です。遺跡として保存したいのではなく暮らしの中で使ってもらいたいという片倉さんの思いは、ごぜうたに対する私の気持ちとそっくり重なります。
山形県東置賜郡川西町黒川平賀さん宅
上の写真は昭和52年に農村文化研究所から発行された機関紙の表紙に掲載されていたものです。
土礼味庵のオーナー片倉さんが探し出してくださいました。撮影した小貫幸太郎さんは、すでに亡くなられているそうです。(撮影は昭和48年)
ここに写っている瞽女さんにも師匠・小林ハルさんと同じような力強さ、品格を感じます。心引かれる写真です。
写真の中央、後ろに小学生くらいの女の子が写っています。
この方が、この日土礼味庵の瞽女唄の会に来てくださったのです。
新潟県上越市渡辺茂雄さま方
「新日本紀行ふたたび」がご縁でお会いすることができました。
右が奥様の勝子さん左が息子さん。
渡辺茂雄さんは、写真の時ちょうど子どもたちの下校の見守りでおでかけになられ残念ながら写っていません。
30数年もの間高田ごぜの杉本キクイさん一行の宿をしてくださっていました。
今はもうなくなられたおばあさんが道でみかけた杉本さん一行に「よかったらうちで泊まっていきませんか」と声をかけたのがきっかけ、と聞かされたそうです。
そういう方だったので、瞽女に限らず三条の金物売りなどの行商人など、年中だれかが家に居たのだそうです。
新潟県十日町市洞泉寺
「新日本紀行ふたたび」でお邪魔しました。
「山椒大夫」「佐渡おけさ」などをきいていただき、昔のお話など楽しく語らった後の記念写真です。
拙い唄なのに本当になつかしみ喜んでくださってありがたく思いました。
その様子は番組で放送され多くの感動を呼びました。
この中のお一人のおうちが杉本キクイさん、シズさんを泊めてくださっていました。
手引きのコトミさんはまた別のおたくに、そして皆さんが集まって唄を楽しんだのは洞泉寺、そのようにして分担してごぜさんの旅を支えてくださっていたのです。
介護事業所コミュニティサービスきずな(新潟県五泉市)
5年前に唄わせていただいた別の施設にお勤めだった渋木春枝さんが、ご自分で始めた施設にお招きくださいました。
この町では何度か唄を聞いていただいていますが、いつも地元の民俗研究家・駒形先生がきてくださいます。
このたびもわかりやすい説明をしてくださいました。
渋木さんのご実家は瞽女宿だったそうです。
「母がごぜさんを断っているのを見たことがあり、本当に気の毒で今でも思い出す」と。
ごぜさんの赤い襦袢が印象的だった、とも。
心尽くしの花が生けられ職員の方々も暖かく、何度か聞いてくださっている地元の方からもおみやげなどいただき、人のご縁のありがたさを感じました。
かつての「瞽女宿」が、形を変えて生きている・・・そう感じた一日でした。